頓挫するソビエト滞在

われわれの計画した技術指導のカリキュラムは計画どおりに順調に進んでいましたが、一方では設備関係の人間は予想を越えた苦労をしていました。ソビエト連邦がまさに崩壊しかけていたそのころ、物流は最悪の状況を迎えていました。現地調達を考えていた資材が届かないのです。

  • もちろんわれわれも現地の物流の問題は事前にある程度把握していましたので、どうしても必要な資材は十分すぎるほど日本から送っていました。しかし、まさかこれがというようなものが問題になります。
  • 工場内も零下の温度になる寒さの中で彼らは工場の設備の設置後、ある問題に直面していました。機械には必ず配管類が必要になります。油圧や空圧、あるいは熱源の蒸気配管類です。さすがにこれぐらいは現地調達できるだろうと思っていた空圧や蒸気の配管材料がまだ入っていないというのです。現地の会社側に問い合わせるとすでに1年以上も前にオーダーをかけ、頻繁に催促しているがいまだに納品されないのです。
  • 別ルートで近くのフィンランドにもオーダーをかけますがいつになるか見通しが立ちません。こんな事態は実はわれわれは現地についたその日から、こんなことになるのでは、というイヤーな予感すらあったのです。
  • 日常の生活に必要な物資はほとんど一般のマーケットでは手に入らなくなっていたのです。われわれもついた初日に野球場ほど広いスーパーマーケットにはじめて行き、売り場の99%は空で、あったのは小麦粉などの粉類と腐りかけた1匹のチキンだけだったときには途方にくれたものです。
  • よって生活は高価な外貨ショップでの購入がほとんどでした。フィンランドからの輸入品の4個のトマト(US$75!)、一個のレタス(US$30!)を手に入れたときには宝物を持ち帰るように当時住んでいた外国人居留アパートに帰ったものです。
  • こうしてわれわれは一向に進まない設備の設置に業を煮やし一時帰国することになったのです。それからソビエト連邦は崩壊への道を一途にたどり始め二度とそのプロジェクトが再開することはありませんでした。しかし、技術指導をどうにか完了していた私はプロジェクトの頓挫とは反対にある種の達成感に包まれていました。そして、このためにはじめたはずの英語習得はまったく別の独立した目的になりつつありました。